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300年の歴史の中に 茨城県筑西市の来福酒造 連載「農大酵母の酒蔵を訪ねて」第16回  稲田宗一郎 作家

2023.07.01

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 300年の歴史の中に 茨城県筑西市の来福酒造 連載「農大酵母の酒蔵を訪ねて」第16回  稲田宗一郎 作家の写真

 1716年に1人の近江商人が江戸幕府に酒を献上しようとこの地を訪ねた。「近江屋」と言う屋号の藤村本家の4代目だった。当時、この地域を取りまとめていた地主「尾見家」が、4代目の「近江屋」を受け入れ、土地を譲ってくれたのが来福酒造の始まりだ。

 当主の藤村本家は、8代目までは近江(現滋賀県日野町)に住み、酒蔵は支配人を置いて酒造りをやっていた。来福は「来笑門来福」と関係があるらしい。誰の句かは不明だが「福や来む 笑う上戸の 門の松」に由来したとのことだ。

 創業当時は「来福」と「万代」の2つの銘柄でスタートし、1936年に現在の鉄筋蔵が建設され、71年に藤村本家から来福酒造株式会社へと法人化した。

 64年に先代の9代目夫婦が日野町から移住し、この地で酒造りを始めた。9代目は、酒造りは越後杜氏に任せた。当時の地方の多くの酒蔵の当主は、村長や県会議員などをやっていたのだが、9代目は陶芸、洋ランなど趣味が多く、特に、洋ランは全国でも名前が知られた栽培家で地元の付き合いはなかったという。

 その頃は、「普通酒」が主で、茨城県内でも多くの酒蔵があり、酒の安売り合戦があったが、9代目は安売りに加わらなかった。最盛期は75年ころで生産量は4000石、職員は10人以上いた。

家業を継いだ時の苦難

 9代目の当主までは越後杜氏による酒造りだったが、10代目の現当主、藤村俊文氏から杜氏による酒造りをやめ、10代目を中心とした社員による酒造りを開始し、今に至っている。俊文氏は東京農業大学醸造学科を卒業後、大手の協和発酵工業に入社したが、家業を継ぐため、97年に来福酒造に戻り98年から杜氏を置かずに自ら酒造りを始めた。

 「最初から酒造りは順調でしたか?」と問うと、「とんでもない、暗中模索の状態でした・・・」と答えてくれた。

 「誰か、酒造りの相談に乗ってくれるとか、師匠のような方はおられましたか?」

 「はい、1人師匠がいました。協和発酵時代の上司のM氏です。M氏は当時、加茂鶴に移っていたのですが、ほぼ毎日、電話で相談しました。今思えば、心配で心配で、ちょっととした温度変化など些細なことまで、電話で相談していました」と笑いながら答えてくれた。

 当時、茨城県の酒蔵は葬式でもっていた。香典返しに日本酒を持たせる慣習があり、200本、300本と酒の注文があったが、9代目は地元との付き合いや繋がりが少なく、葬式用の日本酒では苦戦が続いたそうだ。当時の来福酒造は普通酒が95%だったが、時代は、徐々に特定名称酒に移りつつあった。

 普通酒から特定名称酒への切り替えには特定名称酒用の小型タンクが必要だったが、来福の工場には普通酒用の大型タンクしかなかった。10代目は、何とか大型タンクを工場から出そうとしたが、大きすぎて出せない。そこで、地元の鉄工所に頼み、タンクごとに切断してようやく搬出できた。その後に、特定名称酒用の小型タンクを設置したがコストがかかり、苦しい再出発だった。

10代目の酒作り―来福の物語

 「実は、普通酒から特定名称酒に転換した時、確か2002年、03年ころだと思いますが、品質を最重要視した『真向勝負』ブランドを立ち上げました。コンセプトは、原料米と酵母にこだわりを持ち、品質一本、真向勝負を経営理念に、伝統の中にも新しい来福の酒造りを目指しました」と、酒造りへの思いを次のように話してくれた。

稲田煙突.png
  
               (昔が偲ばれるレンガの煙突)

 「日本酒は米から始まり人が醸します。米作りは農業であり人は技術を伝えます。つまり、農と技の両面から造られるのが日本酒という作品です。米を栽培する農家には物語があり、酒を醸す酒蔵にも物語がある。どんな人が、どんな思いで造ったか。どんな工夫や技が込められているか。お酒の背景にあるストーリーを知れば、お酒はもっと味わい深くおいしくなります」

 1999年から始めた地元での酒造好適米の契約栽培は、現在は、地元の筑西市で1000俵、酒米は500万石、美山錦などの早生種が中心だ。他に兵庫県で500~600俵の酒米(山田錦、愛山)を契約している。契約農家にもいろいろあるが、総じて、「単価」を重視する農家や、収量増を目指して肥料を多投する農家との契約は長続きせず、「自分のコメで作った酒」に愛着を持つ農家とは長く契約が続いているという。

 ただ「この地域の農業は「ここ5年、10年は大丈夫だと思うが、20年後の農業はどうなるのか。米を作る人がいなくなり、農業が無くなれば、日本酒も作れなくなる」と懸念する。農機具の価格が高すぎるのも課題だ。「来福は、地域に支えられてここまで来ることができた。これからは、将来農業をやることで地域への恩返しも考えている。酒造りは冬、コメつくりは夏、この季節性を活用した蔵元のコメつくりは可能性がある。ひいては、それが地域の農業を支えることにつながる」と熱く語った。

稲田古民家 (2).png
       
       (登録有形文化財に指定された尾見家)

 さらに、この地元への感謝は、来福酒造が初めてこの地を訪れたときに土地を提供してくれた尾見家に対する気持ちにも示されている。
尾見家には後継ぎがいない。登録有形文化財に指定された尾見家の古民家も、このままではさびれてしまう。古民家を活用して近江屋(来福)の日本酒を後世に伝えたいという両家の想いが結び付き、日本酒を軸にさまざまな楽しみ方ができる「OMI CAFE」というカフェをオープンする計画だ。


 連載「農大酵母の酒蔵を訪ねて」は、稲田宗一郎さんが国内で唯一、醸造科学科を持つ東京農業大学が生んだ酵母をテーマに、全国の酒蔵を巡るルポです。


 第1回:ダム堤脇のトンネルで熟成 「八ッ場の風」は華やかな香り
 第2回:吟醸酒ブームここから 出羽桜酒造、歴代蔵元の挑戦
 第3回:吟醸の魅力、世界へ 出羽桜、業界底上げ目指す
 第4回:コメへのこだわりと挑戦 4社統合の伝統、宮城・一ノ蔵
 第5回:5代目は日本酒エンターテイナー 南部美人、新時代の蔵元が世界へ
 第6回:リンゴ酵母と大吟醸創る 中尾醸造、竹原が生んだ誠鏡
 第7回:レモンワインと日本最古の酒米 中尾醸造、竹原が生んだ誠鏡
 第8回:7代目蔵元「3つの理念」で酒造り 蓬莱泉の関谷醸造
 第9回:消費者との接点を求めて 蓬莱泉の関谷醸造
 第10回:家族が守った手造りの酒 石鎚酒造、杜氏引退で覚悟
 第11回:3杯目からうまくなる酒 石鎚酒造、時間かけ作り込む
 第12回:誰にも負けぬ酒造りの情熱 「東洋美人」の澄川酒造場
 第13回:同士の力で奇跡の復活 澄川酒造場の継承と革新
 第14回:誕生の原点は「出羽桜研修」 浦里酒造店、小川酵母にこだわり

 第15回:「足し算の酒」で日本酒造り革新  浦里酒造店の若き6代目 

 家稲田 宗一郎(いなだ・そういちろう) 千葉県生まれ。本名などを明らかにしていない覆面作家。2021年7月に遊行社から「錯覚の権力者たち-狙われた農協-」を出版した。

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