吟醸酒ブームここから 出羽桜酒造、歴代蔵元の挑戦 連載「農大酵母の酒蔵を訪ねて」第2回 稲田宗一郎 作家
2022.10.01
1980年代中ごろだったと思う。Tという友人がある小料理屋で「稲田さん、この日本酒、飲んでごらん」と言って、グラスについでくれた。その酒を一口含んだ時、僕はそれまでの日本酒とは全く異なる《フルーティーな香りと淡麗でふくよかな味わい》を感じた。僕はTさんに「この酒うまいな、何という日本酒なの?」と聞いたことを今でも鮮明に覚えている。
出羽桜酒造(山形県天童市)は1892(明治25)年に初代・仲野清次郎が分家し酒蔵として創業し、今年で130年になる酒蔵だ。1980年に発売した「桜花吟醸酒」が世の中の吟醸酒ブームの火付け役となり「吟醸酒のパイオニア」として知られている。
9月初め、「つばさ131号」に乗り12時1分に天童駅に着き、東口を出て、国道22号線(山形天童線)を右折した。出羽桜に行ったことがあるので、なんとなく地理感があり歩いて行くことにしたのだ。道は広く、道の両側に多くの白壁の家が並ぶ風景は、僕の記憶とは少し異なっており違和感を覚えた。
スマホの地図で確認した。同時に電柱の住居表示が一日町となった。道は合っていた。
右側に「なまこ壁」っぽい灰色と白を基調とした小さなタイルばりの2階建ての建物があった。一目で酒蔵だと分かるデザインだ。漆喰で囲まれた事務所の入口があった。大きな杉玉が吊るされていた。その現代的な、かといって華美でなく、酒蔵らしい事務所で4代目の仲野益美さんに会った。
「吟醸香」生む環境とは
挨拶を終えた僕は、早速、4代目に以前から聞きたいと思っていた吟醸酒の香りと酵母について、「素人ですみませんが、吟醸酒の特徴ある香りはどこから来るのですか?」と質問した。
「吟醸酒とは精米歩合(精米後に残った米の割合)が60%以下で、醸造アルコールが添加された酒で、通常よりも低い温度で長時間発酵させる『吟醸造り』というやり方で製造されます。特徴ある香りは、もちろん原料のコメによっても異なりますが、主役は酵母から醸し出されます。低い温度で発酵させることは、酵母をあえてハングリーな状況に置くのです。だから我々はこの過程を『ハングリーの芸術』と呼んでいます」
「ハングリーの芸術?」「そうです。生きにくいギリギリな環境に酵母をさらすのです。その環境で酵母は必死になって生きようとします。その時にあの吟醸香が生まれるのです」
僕は予想もしなかった方向からパンチをくらったボクサーのように、頭の中で「ハングリーの芸術、ハンングリーの芸術」と何回も繰り返していた。
「4代目の説明で酵母が香りの主役だと理解できましたが、出羽桜で使っている酵母は何という酵母なのですか?」
「小川酵母というこうじです。元々この酵母は、小川知可良氏が仙台国税局鑑定室長時代の1951年から52年にかけて、東北6県の数百という蔵のもろみから集めた内の1つと言われています。小川先生を師と仰ぐ3代目が使用したのが始まりでした」
「今でも原点の酵母は小川酵母なのですか?」「そうです。しかし小川酵母と蔵に宿っている家付酵母とが複雑に絡み合い、今の出羽桜になっています。同じ酵母でも絶えず変化しているのです」
「ということは、東京農業大学のプリンセス・ミチコの花酵母を使った吟醸酒と他の酵母を使った吟醸酒では味も香りも違うってことですか?」
「そうです。プリンセスミチコを使った吟醸酒と別の酵母を使った吟醸酒は、原料米は同じ出羽燦々(さんさん)ですが、味と香りは違います。プリンセスミチコは気品にあふれふくよかな感じがあり、他の酵母の吟醸酒はどちらかというとすっきりとした味がします」
僕は4代目の説明を聞きながら、酒造り・酵母とは、まさに、人の力を超えた神秘の世界なのだと思った。
吟醸酒を世に問うた3代目・清次郎の話もまさに小説より奇なりだった。1970年代、吟醸酒は主に品評会のために造られる日本酒で一般には知られていなかった。3代目はこの吟醸酒を品評会のためだけではなく、一般の人々のために市販することを決意し、吟醸酒を社会に認知してもらうために、当時の一級酒よりも安い価格で、ラベルには出羽桜の銘柄名ではなく、あえて吟醸酒と表記したのだ。
さらに驚いたことに、4代目の名前にも酒蔵の物語があった。3代目は「荒地(1947年創刊の詩の同人誌)」にも関係し、詩人を目指していたが、2代目清次郎の説得でその夢をあきらめ、東京農業大学農芸化学科で醸造学を学んだ。卒業後、醸造試験所の紹介で訪れた信州・諏訪の「真澄」との出会いが3代目の進むべき方向を決定させた。
当時の「真澄」は進取の気性に富む蔵元・宮坂勝氏と杜氏・窪田千里氏が努力を重ね、全国新酒鑑評会で上位を独占する有名蔵だった。3代目は「自分の酒造りの原点は『真澄』であり、酒造りの師匠は窪田杜氏、酒哲学の師は宮坂氏」と語り、息子である4代目に益美(ますみ)と名付けたのだった。(この項、続く)
連載「農大酵母の酒蔵を訪ねて」は、稲田宗一郎さんが国内で唯一、醸造科学科を持つ東京農業大学が生んだ酵母をテーマに、全国の酒蔵を巡るルポです。次回は11月1日に掲載します。
第1回:ダム堤脇のトンネルで熟成 「八ッ場の風」は華やかな香り
稲田 宗一郎(いなだ・そういちろう) 千葉県生まれ。本名などを明らかにしていない覆面作家。2021年7月に遊行社から「錯覚の権力者たち-狙われた農協-」を出版した。
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