食べ物語

八戸のヒラメに舌鼓」  眉村孝 作家  連載「口福の源」

2023.10.30

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八戸のヒラメに舌鼓」  眉村孝 作家  連載「口福の源」の写真

 9月8日金曜日の9時43分。JR八戸線の普通列車が陸奥湊(むつみなと)駅に着くと、私は足早に改札口を出て「みなと食堂」をめざした。八戸港の近くで道には魚介や生鮮の店が並ぶ。物珍しげに見回していると、同じ列車に乗っていた女性2人組に抜かれた。うかうかしてはいられない。

 食堂へ到着すると小さな店の中は満席。ほぼ埋まった順番待ちのボードに連絡先を書き込む。店の女性に確認すると「順番が近づいたら電話します」。平日の10時前。朝6時から開いているというのにこの並びよう。噂(うわさ)にたがわぬ人気ぶりだ。

 JR東日本が会員向けに発行する「大人の休日パス」というフリー切符がある。利用期間中であれば、1万5270円で新幹線も含めたJR東日本全線などが4日間乗り放題となる。

 9月上中旬の10日間がパスの利用期間だった。そこで急きょ金・土の2日間で、青森県から福島県まで太平洋岸をつなぐ「みちのく潮風トレイル」の一部を歩いたり、三陸鉄道に乗ったりする旅の計画をたてた。旅の大筋が決まれば、次は何を食べるかだ。幾つかの候補の中からまず選んだのが、東京駅から始発の新幹線に乗ると10時前に到着できるみなと食堂だった。

 ほぼ1時間後にのれんをくぐった。カウンターの他はテーブルが一つ。私を追い抜いた2人組ともう1人の女性、それに私の4人がテーブル席に着いた。

 売りは平目漬(ひらめづけ)丼という。マグロ、ヒラメ、つぶ貝、甘エビが入った「今日の四合わせ丼」にもひかれたが、ここは王道でいこう。平目漬丼と八戸名物のせんべい汁のセットを注文。それでも少し欲が出てホタテのトッピングを追加することにした。

 待ちながら、人気の理由の半分は分かった気がした。何しろ安い。平目漬丼とせんべい汁のセットは1400円。四合わせ丼ですら1550円。札幌の某市場なら、その倍以上はする。インフレとは無縁の店だ。

 平目漬丼はビジュアルも味も満点。丼には醤油(しょうゆ)やみりん、ニンニクなどの特製のたれに漬けたヒラメの切り身がぎっしり。その上に卵の黄身とわさび。淡泊なヒラメの味わいと甘辛いたれ、こってりとした黄身が混ざり合う。脇を固める、出汁(だし)が効いたせんべい汁と、メカブや山芋千切りなどの小鉢もいい。この三つの組み合わせなら、いつまでも食べ続けられる気がした。(写真:平目漬丼+ホタテと八戸名物のせんべい汁のセット、筆者撮影)

 食事をしながら4人の間で話が弾んだ。なんと4人とも関東からの旅行者で、同じパスの利用者だった。東京から八戸を通常料金で往復すれば3万5千円ほどかかるが、このパスを使えば1万5千円強。遠くからでも「来てみよう」と思えるのだろう。

 八戸では1年中ヒラメが水揚げされ、季節ごとに異なる味が楽しめるという。「またパスを使い食べに来ようか」。そんなことをふと想像し、口元が緩んでしまった。

(Kyodo Weekly・政経週報 2023年10月16日号掲載)

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