食べ物語

明治の若者も牛肉大好き  畑中三応子 食文化研究家  連載「口福の源」

2023.08.28

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明治の若者も牛肉大好き  畑中三応子 食文化研究家  連載「口福の源」の写真

 NHKの朝ドラ「らんまん」で、主人公の槙野万太郎は、うれしいことがあると仲間と牛鍋を食べに行く。

 初めて行ったのは、1回目の上京時。牛肉自体が初体験で、同行の竹雄とグツグツ煮える牛鍋を緊張の面持ちで見つめ、こわごわ口に入れるや「うまいー」「甘くてたまらん」「口んなかで溶けた」と感激し、のけぞる様子がコミカルに描かれた。

 時は、第2回勧業博覧会が開催された1881(明治14)年。その頃、牛肉は文明開化を象徴する食べ物で、新しいもの好きの間では牛鍋が大ブームになっていたが、忌み嫌う人も多かった。

 作家の内田百閒は万太郎と同じく造り酒屋の生まれで、モデルになった牧野富太郎より20歳以上も年下だが、「酒倉が穢(けが)れる」という理由で肉食を禁じられていたという。信心深い年配者の忌避感はとくに強かったから、万太郎が牛鍋に魅了されたことを知ったら、祖母のタキはさぞ嘆いただろう。家人が牛肉を食べる時は、仏壇の扉を閉じて紙で目張りをする老人もいたそうだ。

 旧世代の反発をよそに、進歩的な明治の若者は牛肉が大好きだった。東大生時代の夏目漱石はいつも下宿で友人たちと金を出し合って牛鍋を作っていたという。初期の牛肉店は牛鍋だけでなくステーキなど洋食も提供し、生肉の販売もした。東京に最初の牛肉店が開業してからたったの10年で550軒を超えたほどで、流行の勢いは止まらなかった。

 明治時代、数ある牛肉店のうち最も大衆的な人気を誇ったのが「いろは」である。本支店合わせて東京に20店舗以上あった。日本のチェーン・レストランの元祖である。どの店も2階のガラス窓が5色の市松模様なのがハイカラで、材料の一括仕入れによるコスト削減で値段は安かったという。

 「らんまん」で気になったのは、牛肉やネギのほかに、白滝と焼き豆腐が入っていたことだ。幕末に牛鍋が創案された当初は、ぶつ切り、または5ミリ〜1センチ厚さの肉をネギ、みそと一緒に鉄鍋で炒め煮した。やがて明治10年代になると、味つけはしょうゆにほぼ統一されたが、具はネギ一種だけで生卵は付けなかったからだ。まだ肥育が発達していなかったので、肉は口の中で溶けるほど柔らかくなかったかもしれない。

 明治中期になると、店によって白滝や豆腐、麩を入れるようになった。東京の牛鍋が関西風のすき焼きに取って代わられ、具の種類が豊富で生卵を付ける現在のようなスタイルに落ち着き、家庭のごちそう料理になったのは関東大震災以降だといわれる。

 翻って現代、部屋ににおいが染み付くのを避け、すき焼きを作る家が減っているという。家族内でも、ひとつ鍋からつつき合うのが汚いと、嫌がる子どもがいるとも聞く。外食では一人鍋ですき焼き、しゃぶしゃぶを提供する店が増えた。コロナ禍の影響もあるが、複数で連れ立ってもカウンターでおのおのが一人鍋に向き合う姿は、ちょっと寂しい。(写真はイメージ)

(Kyodo Weekly・政経週報 2023年8月14・21日号掲載)

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