食べ物語

豚骨は久留米から日田へ  来々軒の歴史  小川祥平 登山専門誌「のぼろ」編集長

2023.01.30

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豚骨は久留米から日田へ  来々軒の歴史  小川祥平 登山専門誌「のぼろ」編集長の写真

 「ここの屋台は解散。今からはラーメンを広めていこう」

 白濁豚骨ラーメンを生みだした屋台「三九」(福岡県久留米市)創業者の杉野勝見さんはそう宣言した。この言葉がなければ、豚骨ラーメンが九州各地に広がることはなかったかもしれない。

 宣言した相手は屋台で一緒に働いていた叔父、田中始さん。杉野さんは言葉通り、1951(昭和26)年に北九州・小倉で来々軒を開業。そして田中さんも思いを引き継ぐ。54年に「水がおいしい」との理由で大分・日田市に来々軒を開いた。この店こそが大分県で初めてのラーメン店とされている。

 「中華そばは存在したらしいけれど、ラーメンはない。珍しさもあってすぐに売れたそうです」。田中さんの孫であり、日田来々軒4代目の田中彰さん(53)はそう話す。実際に人手が足りなかったようだ。(写真:店舗前でポーズを決める彰さん=筆者撮影)

 始さんはすぐに息子で2代目となる真澄さん(2021年に88歳で逝去)を呼び寄せている。店に保管していた真澄さんの履歴書を見せてもらった。来々軒は54年9月に開店。博多の菓子店で働いていた真澄さんはその年の12月に職を辞し、来々軒入社と記されていた。

 平日600杯、土日は1000杯出た。従業員は10人近くに。普通なら店舗展開をするところだが、始さんは違った。

 「ラーメンの発展のために、弟子を育てていく。支店はつくらない」。始さんとよく魚釣りをした彰さん。その度に何度も聞かされた言葉だった。

 麺打ちの技術を習得すれば、誰でものれん分けでの独立を認めた。大分、福岡県で「来々軒」が続々と誕生。孫弟子まで含めると「100軒は超えていたのでは」と話す。

 日田焼きそばで有名な「想夫恋」(57年創業)との関わりも深い。同店の創業者、角安親さんと始さんは狩猟仲間。彰さんによると、最初は始さんが角さんにラーメンを教えた。その後、想夫恋が焼きそばで有名になると「あんたがたもしない(すれば)」と麺の焼き方を習ったという。今来々軒では、焼きそばはラーメンをしのぐ人気となっている。

 厨房には彰さんの兄で3代目の功さん(62)もいた。2人の子ども時代は「宿題より仕事」だった。学校から帰ると店を手伝い、出前要員にもなった。「腹が減ったら、『自分でラーメンつくって食え』でしたから」と功さんは振り返る。

 店舗展開をせず、家族経営を続ける大変さは想像以上だという。簡単には休めない。休日にもスープに火をかけなければならない。何より、ラーメンが珍しいものではなくなった。「僕の代で終わりになるかも」と彰さんは率直に言う。

 それでも「ラーメンを広めていこう」という初代の言葉は現実のものとなった。今も頑張る弟子、孫弟子がいる。九州の豚骨ラーメンの歴史に「日田来々軒」は深く刻まれている。

 「ラーメンの歴史を形づくれた点では大成功だと思うし、誇りに思っています」。厨房の2人のその言葉にはすがすがしさを感じた。

(Kyodo Weekly・政経週報 2023年1月16日号掲載)

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