食べ物語

東京にある「古里の味」  73年から豚骨ラーメン  小川祥平 登山専門誌「のぼろ」編集長

2022.08.29

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東京にある「古里の味」  73年から豚骨ラーメン  小川祥平 登山専門誌「のぼろ」編集長の写真

 京都小平市の西武鉄道「小川駅」から歩く。近づくにつれて漂ってくるにおいに「あれ、豚骨ラーメン?」と思う。店に入るといかにも南国系の顔立ちをした大将に「九州の方かな?」。話してみるとあきらかに九州の言葉だった。

 店主の石橋和明さん(74)=福岡県久留米市出身=が営むのはその名も「九州ラーメン いし」。1973年から豚骨ラーメンを提供しているというから、東京で豚骨ブームが起きる80~90年代より、ずっと早い。(写真:「九州出身以外の人も多いよ」と話す石橋さん=筆者撮影)

 その理由は小平という場所にあった。この地には、久留米市発祥のタイヤメーカー、ブリヂストンの東京工場がある。久留米に次ぐタイヤ工場として操業を開始したのが1960年。ブリヂストンによると、東京工場の稼働に合わせ、約800人の従業員が久留米から移ってきて〝久留米コミュニティー〟が形成された。

 それから10年ほどがたったころ、就職のために久留米から上京していた石橋さんの元へ、高校時代の後輩から相談があった。ブリヂストンの生協に勤務していた後輩は「従業員が豚骨ラーメンを食べたがっている。店をしませんか」。

 石橋さんの妻の実家は久留米市の老舗ラーメン店。学生時代の4年間、バイトをしていたというのが声をかけられた理由だった。「商売にも興味があったから」と東京工場のすぐ近くで店を開いた。

 住む場所が変わっても、食べ物はなかなか変えられない。古里の懐かしい味に久留米の人たちは飛びついた。「最低でも1日300杯。創業直後から売れたよ」。客の8割がブリヂストンの従業員で、店内では筑後弁が飛び交った。ほどなくして商業施設「ブリヂストンマーケット」に場所を移した。そこでも「夜はどんちゃん騒ぎ。ほかの店から苦情がきてねえ」と懐かしむ。

 はまったのは古里の人だけではない。店と味がこの地に根付くにつれ、新たなファンも獲得している。取材時に居合わせたのは千葉県出身の元ブリヂストン従業員。「最初はくさすぎて一口も食べられなかった」というが、今では常連客の1人だ。その隣の常連さんは岩手県の生まれ。彼らのしゃべりがどこか筑後訛りだったのがおもしろい。

 ここ2年ほど、私は福岡のFMラジオ局の音楽番組に出演し、ラーメン店と、その店に合う1曲を紹介している。先日「いし」を取り上げた際に選んだ曲は高田渡の「生活の柄」だった。

 歌詞は沖縄出身の詩人、山之口貘の詩が基になっている。山之口は沖縄のこと、沖縄出身者としての東京での生活を書き続けてきた。その言葉は、出身地関係なく普遍性を持って響く。

 いしの一杯もそう。かつては久留米の人たちの胃袋を満たし、今はそれ以外の人たちに広がった。古里の味を超えて親しまれているのだ。


 
筆者の小川祥平(おがわ・しょうへい)さんは1977年生まれ。西日本新聞社記者。著書に「ラーメン記者、九州をすする!」(西日本新聞社刊)。出向所属先は西日本新聞プロダクツメディア制作部次長。

(Kyodo Weekly・政経週報 2022年8月15日号掲載)

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