食べ物語

消えていく売り声  「土地を食う」駅弁150年  植原綾香 近代食文化研究家

2022.06.06

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消えていく売り声  「土地を食う」駅弁150年  植原綾香 近代食文化研究家の写真

 「お茶ーエー、弁当いかが、ビール正宗いかが、東京・大阪の新聞でござーい」。今では耳にしない駅弁売りの声である。列車のスピード化、乗り換え時間の短縮、窓の開かない列車によりホームでの立ち売りの姿は歴史遺産となったが、かつてそれぞれの駅では地方色ある売り声が響いた。

 駅構内で最初の販売許可願いが出されたものは「東京・大阪の新聞」の呼び声にあるよう新聞だった。鉄道開業の年である1872(明治5)年には日刊紙「日新真事誌」で知られる英国人ブラックが願書を出し販売を開始させた。

 駅弁の始まりは諸説あるが、最初は握り飯と漬物から始まり、明治20年代には折詰の立ち売りが行われていた。「お茶」から始まるこの声は、1902(明治35)年ごろの浜松での売り声だ。

 当時、お茶は土瓶で売られておりその後ガラス、ポリ茶瓶、そして缶、ペットボトルへと姿を変えていく。1928(昭和3)年には土瓶で売るのが静岡だけになったそうで「ガラス瓶に入ったのは感じの悪いものである。土瓶式のほうがよほど風味がありお茶らしくあるかも知れない」といった声も寄せられた。

 1905(明治38)年になると駅弁の種類も増え、各地の駅弁(当時は汽車弁)についての批評も見ることができるのだが、卵焼き、かまぼこ、椎茸、煮豆が入っているものが多く、駅弁の要素を問われたらこの4品が主要と答えるというのは、今の駅弁と比べてみても面白い。(写真:雑誌「少女物語」=1924年1月、ポケット講談社発行=の付録「花ちゃん日記お勘定双六」の部分、東京都立図書館)

 股旅物で知られる作家の長谷川伸は、駅弁というものが興味深いものであると唱える。「食堂車は或(あ)る一つの都市の延長だが、駅弁は一つではない、各駅弁立ち売り別」なので「汽車旅行の延長でありその線の圧縮」で「土地を食う意味になる」と。

 例えば今日でも越前かにめしで有名な番匠の名をあげ、「福井県番匠の駅弁の魚類が殆(ほとん)どつねに清新にして他駅よりは大きかった時代がある、あの沿岸の漁場から集まる魚介を消化する福井市を、多少とも髣髴(ほうふつ)させる」という。また豊橋のつぼ屋と沼津のうなぎ飯ではうなぎの背と腹が違ったという話も興味深い。

 今でこそターミナル駅やデパートで一堂に会して駅弁を選ぶことができるが、そうでなかった時代。駅弁と土地の結びつきの強さをより感じる。うつりゆく風景と徐々に近づく名産品の売り声に引かれ、いつどこで何を買おうかと、窓越しの売り子にどんなにわくわくしただろうか。

 今年は新橋・横浜間に鉄道が正式開業して150周年であり、西九州新幹線の開業も予定されている。長い歴史の中でかつて当たり前だった売り声が消えていく。ただ、たくさんの歴史を乗せ、走り続けるそのロマンが鉄道の魅力なのだと思う。

(Kyodo Weekly・政経週報 2022年5月23日号掲載)

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