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宮崎空港の不発弾爆発に思う  藤波匠 日本総合研究所調査部上席主任研究員  連載「よんななエコノミー」

2024.11.04

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宮崎空港の不発弾爆発に思う  藤波匠 日本総合研究所調査部上席主任研究員  連載「よんななエコノミー」の写真

 10月2日、宮崎ブーゲンビリア空港の誘導路において、太平洋戦争中に米軍が投下し、その後発見されることなく土中に放置されていた不発弾が爆発する事故がありました。幸い離着陸中の航空機に影響はなく、大事には至りませんでしたが、終戦から79年が経過して、過去の話となりつつあった戦争の記憶を呼び覚ましました。(写真:宮崎特攻基地慰霊碑、筆者撮影)

 9月中旬、仕事で宮崎に行った際、宮崎ブーゲンビリア空港を利用しました。空港まで送っていただいた地元の方に、宮崎ブーゲンビリア空港は、いまでこそ華やかな名称がついているものの、戦時中は海軍赤江飛行場という名称の軍の施設で、終戦間際には神風特別攻撃隊(特攻隊)の基地となったことをお聞きしました。空港周辺には、飛行機を空襲から守ったコンクリート製の掩体壕(えんたいごう)が残り、滑走路わきには特攻隊の慰霊碑があるとのこと。

 搭乗する飛行機の出発まではあまり時間がなかったのですが、慰霊碑まで行ってみることにしました。慰霊碑は、空港ビルから15分ほど歩いた滑走路の西端にあり、決して広い敷地ではありませんが、植栽は手入れが行き届いていました。

 たまたま慰霊碑の管理をしている方がおられ、短い時間でしたが、お話をうかがうことができました。この慰霊碑は、赤江飛行場から飛び立ち帰還しなかった特攻隊員など385人と、この飛行場以外から飛び立った宮崎県出身の特攻隊員など414人が合祀(ごうし)されているとのこと。また、赤江飛行場は、本来爆撃機などのパイロットを育成するために1943(昭和18)年に建設されたものですが、すでにこの時期には人手不足が深刻化しており、滑走路の整備に地域の国民学校の生徒が動員されたことも聞きました。大戦末期には、成人男子は徴兵され、それ以外の大人も勤労動員されているため余力はなく、国家総動員法の下、労働力として子どもまで動員しなければならない状況に追い込まれていたのでしょう。

 昭和20年に入ると赤江飛行場も空襲に見舞われるようになり、残存していた飛行隊はより北の施設に後退したそうです。今回爆発した不発弾は、この空襲の際に投下されたものと考えられます。

 戦後、赤江飛行場は米軍に接収された後、航空大学校が誘致され、その後、旅客用の空港として利用されるに至りました。以前は爆撃機のパイロット育成や特攻基地であった土地が、旅客機のパイロット育成の拠点となり、さらに昭和30年代に民間航空機が就航するようになると、団塊の世代の結婚ブームとも重なり、宮崎は新婚旅行のメッカへと変貌を遂げます。街には多くのホテルが立ち並び、宮崎の地域経済を押し上げました。特攻の基地は、終戦からわずか20年で、平和と豊かさの象徴へと転じたことになります。今回の不発弾の爆発は、戦争の記憶が薄れつつある中、ここが戦争の最前線であったことを思い起こさせる出来事でした。

(Kyodo Weekly・政経週報 2024年10月21日号掲載)

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