原発事故、母親たちの闘い 菅沼栄一郎 ジャーナリスト 連載「よんななエコノミー」
2024.05.13
「ボンジョールノ」「チャオ」。東京電力福島第1原発の北西に位置する福島県飯舘村の小学4年、長田緑(おさだ・りょく)君(9)は最近、イタリア語でのあいさつがうまくなった。
原発事故の影響下で暮らす子どもたちを対象に、同県いわき市の認定NPO法人「いわき放射能市民測定室たらちね」が、イタリアでの転地保養プログラムを現地NPOと連携して続けている。2012年から延べ136人に上り、緑君は今夏の8人枠に選ばれたのだ。
村の小学校の女性担任にイタリア滞在の経験があるという幸運にも恵まれ、「夏休みまでにいっぱい勉強しなくちゃ」と張り切る。
このプログラムには甲状腺エコーなどの診断も組み込まれており、3年前に宮城県から5人家族で移住した緑君にとっては初めての甲状腺検査となる。母親の早(さき)さん(33)は「いいきっかけになります」。
実は、原発事故による健康被害と甲状腺がん検査の関係には複雑な背景がある。
福島県は原発事故直後の11年秋から、事故当時18歳以下だった約38万人を対象に甲状腺がんの検査をしてきた。被ばくの不安を取り除く効果がある一方で、身体には一生害を及ぼさないレベルのがんを見つけた結果、心理的な負担となる「過剰診断」との意見もある。当初、8割余りだった受診率は、最近の検査では約45%だという。
原発事故による被ばくと甲状腺がん発症に因果関係があるかどうかは裁判で争われている。「甲状腺がん、またはがんの疑いがある」とされた人は23年9月末現在で328人。うち275人が手術を受けた。このうち県内在住の事故当時6〜16歳だった男女7人が、原発事故による被ばくが原因だとして東電に損害賠償を求め東京地裁に提訴。東電側は「健康被害が出るような被ばく量ではない」などと反論している。
県の評価部会は23年、過去9年間の検査結果を分析した結果、被ばく線量の増加に応じてがん発見率が上昇するという関係性は認められなかった、と結論付けている。ただ、低線量被ばくによる影響が遅れて現れる可能性までは否定していない。
冒頭の「たらちね」は、原発事故の影響に不安を抱く母親らが11年に設立し、福島第1原発沖の海水をはじめ、いわき市内の公園の土や砂場、県内の畑で取れた野菜まで放射性物質の測定を独自に続けてきた。定期的にセシウムやトリチウムの濃度を測り、膨大なデータをホームページに公開している。理事長の鈴木薫(すずき・かおり)さんは「見えない、臭わない、感じない放射性物質を可視化し、みんなで考えることができるようにするのが私たちの役目です」。
イタリアはチェルノブイリ原発事故をきっかけにいち早く脱原発を決めたが、昨秋には気候変動を理由に原発回帰へ動き出した。原発再稼働が進む日本では、福島第1原発の処理水海洋放出が始まり、廃炉の行方も見えない。
子どもたちの未来を守るために立ち上がった「たらちね」にとっても「先が見えない闘いが続く」と鈴木さん。イタリアで保養する子どもたちに、この団体の〝粘り腰〟が伝わるか。
(Kyodo Weekly・政経週報 2024年4月29日・5月6日合併号掲載)
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