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「官僚道」貫いたコメ開放交渉  塩飽二郎・元農水審議官をしのぶ  共同通信アグリラボ所長 石井勇人 

2020.09.16

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「官僚道」貫いたコメ開放交渉  塩飽二郎・元農水審議官をしのぶ  共同通信アグリラボ所長 石井勇人 の写真

 1993年末に決着した関税貿易一般協定(GATT)の多角的貿易交渉(ウルグアイ・ラウンド)は、世界貿易機関(WTO、写真はジュネーブの本部)の設立につながる空前絶後の大交渉だった。当時、農林水産審議官として農業分野の責任者だった塩飽二郎(しわく・じろう)さんが、8月末に亡くなった。享年87。

 極秘交渉で、真相はいまでもベールに包まれている。このため評価も定まっていない。コメについて、ミニマムアクセス(最低輸入量)による部分的な市場開放を受け入れたため「失敗だった」と断じる論者も多い。

 安倍晋三前首相は、2015429日に米国連邦議会上下両院合同会議で演説し「GATT(ガット)農業分野交渉の頃です。血気盛んな若手議員だった私は、農業の開放に反対の立場をとり、農家の代表と一緒に、国会前で抗議活動をしました。ところがこの20年、日本の農業は衰えました」と、自己批判して大きな拍手を浴びた。交渉関係者はどんな思いで、この演説を聴いただろうか。

 交渉は、貿易障壁をすべて関税に置き換える「例外なき関税化」を原則に掲げた。関税を徐々に削減して最終的には撤廃する恐れがあるため、衆参両院は全会一致でコメの例外扱いを求める国会決議を繰り返した。

 93年に米国でクリントン政権が発足して合意の機運が高まると、塩飽さんら数人による隠密の日米交渉が繰り広げられ、同年12月14日未明に細川護熙首相が「断腸の思いの決断」と、コメの部分開放を表明した。この年は、宮沢喜一政権の行き詰まりによる自民党の下野・細川政権の発足、冷害によるコメの大凶作など激動の1年だった。

 「極秘」による国民不在の交渉パターンは、環太平洋連携協定(TPP)を含むその後の貿易交渉でも踏襲され、批判も多い。10年ほど前に筆者がこの点を問うと、塩飽さんは「国益を守るために秘密交渉はやむを得ない」と答えた。

 「何が国益なのか」。重ねて問うと「それを決めるのは国会であり、官僚は国会で決められたことを最大限守り抜くことだ」と語気を強めた。それが塩飽さんの信念だった。実際に「関税化の例外」という国会決議をぎりぎりで守った。

 塩飽さんは、外交官が一目置くほど語学に精通し、大変な読書家でもあった。Food regulation and Trade(「食の安全を守る規制と貿易」、家の光協会)Politique agricole(「現代農業政策論―ヨーロッパ・モデルの考察」、農文協)、Agriculture in the GATT(「ガット農業交渉50年史」、同)、Trade warriors(「通商戦士」、共同通信社)など分厚い専門書を原語で読み、自身で翻訳した。

 農畜産業振興事業団理事長などを経て一線を退くと、膨大なコメ交渉の記録を独りでこつこつと整理し始めた。「交渉は極秘であっても、記録がなければ後世の評価ができない」と、交渉相手と食事を共にした時のホテルの紙ナプキンに走り書きしたメモまで保存していた。

 筆者が事務所に通い、垣間見た交渉の経緯は、「通説」とはまったく異なり、政権交代も冷害による凶作も関係なく、93年10月11日に来日中のエスピー米農務長官と畑英次郎農相の会談で決着したという内容だった。

 資料から顔を上げた筆者が「意外ですね」と言うと、塩飽さんは「細川首相は落ちていた財布(交渉成果)を拾っただけだよ」とつぶやき、「一杯飲んで帰るか」と、コットンパンツの尻ポケットに文庫本の真田太平記を突っ込んで立ち上がった。

 整理を終えた膨大な資料は、デジタル化されある大学に保管されている。いつ、どのように公開されるのか不明だが、交渉記録の存在そのものが、我田引水の「歴史」の独走に歯止めを掛けるのは間違いない。合掌。(共同通信アグリラボ所長 石井勇人)

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