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「カンカラ三線」演歌に出合う  菅沼栄一郎 ジャーナリスト  連載「よんななエコノミー」

2024.04.08

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「カンカラ三線」演歌に出合う  菅沼栄一郎 ジャーナリスト  連載「よんななエコノミー」の写真

 空き缶でつくった「カンカラ三線(さんしん)」を鳴らし、赤い法被を羽織った岡大介さん(45)が歌い始めた。

 〈ラメチャンタラギッチョンチョンで パイノパイノパイ〉

 その昔、わが家のじいさんも口ずさんでいた懐かしのフレーズに続き、こう結ぶ。

 〈謎が謎呼ぶ国会で(中略)白紙改ざん黒文書、消して隠して書き換えて(中略)庶民の暮らしは知らん顔〉

 無責任国会をグサリと刺す。

 2月の夜。東京・新宿の居酒屋「千草」で、月例の「投げ銭流し」は93回目を迎えていた。お次は「復興節」の替え歌が満員の酔客の喧騒(けんそう)を突き破った。

 〈ウチは焼けても 能登っ子の 意気は消えない 見ておくれ アラマ オヤマ 聞こえる響くよ笑い声 海から山から島から船から 北陸復興 エーゾエーゾ〉

 カンカラ三線は、岡さんの著書「カンカラ鳴らして、政治を『演歌』する」(dZERO)によると、太平洋戦争の沖縄戦で米軍の捕虜になった人たちが歌を忘れず、大きな空き缶にパラシュートのひもから取った弦で作ったという。

 岡さんが代々木公園でギターの弾き語りをしていた頃に、仲良くなった男性が演奏していたさまざまな民族楽器の中にあった。単音で弾きながら歌ったら「ハイカラ節」がピタリとはまった。3千円で分けてもらった木材を組み立てた。

 20歳の時。吉田拓郎の「人間なんて」を聴いて、フォークの世界に飛び込んだ。ただ「メシが食える」と直感したのは、ギターをカンカラに代えて「憧れのハワイ航路」などレパートリーを増やし、「これまでは考えられないほどの投げ銭」を経験した時だった。

 自称「日本でただ一人の演歌師」。演歌とは「演説歌」だ。明治期に自由民権運動の壮士たちが、街頭で歌うように時の政治を批判したのが起源。神奈川・大磯の農家に生まれた添田啞蟬(そえだ・あぜん)坊(ぼう)は演歌師の草分けである。

 先の居酒屋で岡さんが替え歌にした「復興節」は、関東大震災の直後、子の知道(ともみち)が焼け野原となった現場で流したのが元歌だ。101年後に起きた能登半島地震を機にアレンジした。

 多くの演歌を残してくれた添田親子への感謝の気持ちから、年に2回、東京・小平霊園の墓掃除に通っている。

 流しは酒場ばかりではない。老人ホームは最も反応が良く、大正演歌ともなると大合唱だ。祭りにも出かける。やりがいがあるのは反戦・反原発などの政治集会。厳しい現場は、やはり酒場か。見向きもされなかった記憶は今でもきつい。

 ガザやウクライナの動向もにらむ。〈弱い者いじめはくだらねえ 力ずくなどなんになる 土地など欲しけりゃくれてやる 仲間の命返せるなら カンカラカラカラ蹴っ飛ばせ〉

 東日本大震災の現場に何度も通った。能登の現場で「演歌」する準備もできている。

(Kyodo Weekly・政経週報 2024年3月25日号掲載)

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