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士族のチャレンジが原点  都心の酪農、史跡を歩く  畑中三応子 食文化研究家

2022.12.12

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士族のチャレンジが原点  都心の酪農、史跡を歩く  畑中三応子 食文化研究家の写真

 さる11月5日、「ブラミルク@東京」に参加した。東京の酪農乳業史跡を発掘しては訪ね歩くというユニークなイベントだ。黎明期の牛乳をテーマに、明治初期につくられた千代田区内の牧場跡6カ所を巡った。(絵:明治初期の東京の牧場の様子=「東京商工博覧絵・上」深満池源次郎編、1885年刊、国会図書館デジタルコレクションから)

 千代田区は明治に牛乳が飲まれるようになって最初に牧場ができた地である。牧場主には元武士、ことに旧幕臣が多かった。

 散策の前、日本酪農乳業史研究会会長の矢澤好幸さんと、都市史の研究者、金谷匡高さんから、都心に牧場がつくられた理由についてレクチャーを受けた。

 江戸から東京になり、大名や藩士たちが国元に帰ったため、120万人だった人口が60万人にまで激減し、都心部で大きな面積を占めていた武家地からは人が消えた。中上級の幕臣が集まっていた現在の番町、富士見、九段、飯田橋、神田三崎町あたりの空き家になった旗本屋敷が、牧場として利用された。明治以降、このエリアには陸軍と政府の高官、皇族、外国人が多く居住したため牛乳需要が高く、牧場にはうってつけの場所だった。

 当時の牧場は「牛乳搾取所」と呼ばれ、牛を飼い、乳を搾り、配達まで行った。牛乳搾取業は「いまでいうITベンチャー」と矢澤さん。進歩的な職業として、プライドの高い士族がこぞってチャレンジしたという。

 牧場のつくりは武家屋敷時代の空間を上手に生かし、長屋門を入り口にしたり、井戸のある前庭を放牧場に変えたりと、江戸の風情をそのまま残していた。文明開化とはいっても、いきなり西洋風の牧場ができたわけではなかった。

 スタートは東京最初の牛乳搾取所の「阪川牛乳」。英国大使館の近く、現在「錢高組」東京本社ビルが立つ場所が放牧場だった。牧場主は旧旗本の阪川当晴、出資者は初代陸軍軍医総監の松本良順。東京乳業を代表する老舗の一つになった。

 次の「英華舎」は東郷元帥記念公園の近所。地主は日本赤十字社を設立した櫻井忠興、出資者は山県有朋、牧場主は山県の執事を務めた平田貞次郎だった。3番目の「猪股要助牧場」は、法政大学市ケ谷キャンパス内。校舎に囲まれた中庭は高台になっており、日当たりも水はけも良さそうで、牛にとって最高の環境だったろうと感じた。

 4番目の「北辰社」は、目白通りに牧場跡を示す石碑が立っているので探しやすい。旧幕臣で農商務、外務大臣などを歴任した榎本武揚が自宅に開業した。最後の2カ所、「愛光舎」は神田三崎町の白山通りに面し、「日新社」はその隣。愛光舎創業者の角倉賀道は天然痘ワクチンを製造するため牧畜を手がけ、牛乳業にも進出して日本初の蒸気殺菌牛乳を販売した。牛つながりでハンバーガーのおいしいカフェ「IーKousha」に変わっていまも健在だ。

 有力者が多く関わっていたことからも、牛乳業が注目のビジネスだったことがよく分かった。東京都心に酪農の原点を見る、味わい深い街歩きだった。

(Kyodo Weekly・政経週報 2022年11月28日号掲載)

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