暮らす

いま味わう「起死回生の水」  「琵琶湖疏水」が守る京都  真鍋綾 文筆業

2021.08.30

ツイート

いま味わう「起死回生の水」  「琵琶湖疏水」が守る京都  真鍋綾 文筆業の写真

 「こんなところに疎水(そすい)が?」

 昨年秋、筆者は大阪から京都へ移住したが、自宅近くの水流にかかる橋に「琵琶湖疏水」の文字があって驚いた。「琵琶湖疏水」といえば、南禅寺にある水路閣(写真)というレンガ造りの橋しか知らなかったからだ。

 「琵琶湖疏水」の歴史は明治時代にさかのぼる。当時の京都は明治維新後の東京遷都によって人口が激減、衰退し始めていた。京都府知事の北垣国道は、京都の復興に何が必要かを考え、たどり着いたのが「水」だった。

 隣接する滋賀県の琵琶湖から水を引き入れ、水力によって産業を振興し、さらに、かんがい、上水道、水運などに活用する。疎水の構想は明治以前からあったが、山を貫いてトンネルを掘る難工事を実現させる技術がなかった。

 そこに逸材が現れた。明治政府が設立した工部大学校(現東大工学部)を卒業したばかりの田邉朔郎である。卒論のテーマは「琵琶湖疏水工事の計画」。北垣は田邉を京都府に採用、彼を主任技師として1885(明治18)年、工事が始まった。

 それは初めて尽くしの工事だった。外国人技術者に頼らない日本人のみによる初の工事であり、夜は講義、昼はその実践と、現場で技術者養成が行われた。トンネル掘削では初の立て坑方式を採用、さらに米国での水力発電実用化の報に接し現地を視察、計画を変更して日本初の事業用水力発電所の建設を始めた。

 約4年8カ月の歳月を費やし、1890(明治23)年、「第一疏水」が完成した。翌年には発電所が始動、その後、電力を用いて多くの企業が生まれ、日本初の路面電車が市中を走った。日本の近代化によって衰退を余儀なくされた京都が、その近代化がもたらした技術力によって新たに生まれ変わったのである。疎水は今も現役だ。

 疎水の始点近くに三井寺がある。その名の由来は天智・天武・持統という3人の天皇の産湯に使った井戸があるからだという。三井寺がある長等山(ながらさん)の下を、疎水の工事最大の難関といわれた第一トンネルが通っている。

 約千年にわたって天皇を中心に日本文化を育んできた京都。京都を衰退から守るということは、一つの都市を守るにとどまらず、一つの国の文化を守ることではなかっただろうか。そのために、くしくも天皇ゆかりの地から、人々は起死回生の「水」を送ろうと力を尽くしたのではないか。その水を筆者は今、日々味わっている。

(Kyodo Weekly・政経週報 2021年8月16日号掲載)

最新記事