元サムライも牧場経営 近代酪農発祥の地・東京 畑中三応子 食文化研究家
2022.05.02
3月末から4月頭にかけて、コンビニ各社が牛乳を値引き販売した。春休み、大型連休で学校給食がなくなり、生乳が再び廃棄される懸念が浮上したためだ。あるスーパーは1リットルパックを100円で売っていて、あまりの安さに衝撃を受けた。
全国の酪農家戸数は1963年の約42万戸から、2020年には約1万4000戸まで激減している。生産者が減り、生乳生産量が減少した結果、慢性化したバター不足を解消するため農林水産省が増産を後押しし、やっと生産量が増えたところをコロナ禍が襲った。輸入飼料穀物の高騰もあり、今後は生産抑制にかじを切るという。
社会情勢に翻弄される牛乳の受難を憂えながら、赤坂の日枝神社を訪れた。あまり知られていないが、ここが近代酪農の発祥した場所である。「わが国黎明期の牧場」と題する案内板がひっそり立っている。(写真:日比谷高校の正門向かい、日枝神社専用駐車場の柵に立つ案内板=筆者撮影)
牛を飼って乳を搾り、飲むという文化は明治初期、東京ではじまった。国民の栄養改善と体力増強のため、新政府が牛乳を奨励したことに呼応し、空き地になった都心の武家屋敷跡に牧場がたくさん作られた。とくに日枝神社周辺での飼養乳牛頭数が多かったことから、日本における酪農生誕地とされている。
古代と江戸時代にも酪農は行われたが、搾った乳は煮詰められ、保存のきく固形物に加工されて薬として珍重された。そのまま飲むようになったのは、明治以降である。初期の利用者は居留地の外国人や新政府の閣僚など都心部の住人だったため、腐りやすい牛乳を新鮮なまま届けるには、生産地と消費地がごく近いことが必須条件だった。
牧場経営に乗り出した人には元サムライ、なかでも旧幕臣が多かった。牛乳業は知的で新しい仕事というイメージがあり、明治維新で失業した士族がこぞって挑戦したのである。牛の飼育と搾乳、配達までをすべて行ったのでハードな仕事だったが、忍耐強いサムライ気質には合っていたのか、武士の商法では数少ない成功例になった。
こうして牛乳業は一種のブームとなり、山県有朋が麹町三番町、副島種臣が霞が関、由利公正が木挽町といったように、明治の有名人たちも次々と牧場を開設している。とりわけ発展したのは榎本武揚が1873(明治6)年に開いた「北辰社」。千代田区飯田橋の目白通り沿いには牧場跡地の記念碑が立っている。
明治後半になると都市化が進んで牛のふん尿や臭いが公害問題になり、牧場は周辺部に移転を強いられた。運搬に便利な中山道や青梅街道沿いの土地が好まれて、大正時代にかけての池袋エリアは約60軒の牧場が集まる日本有数の酪農王国になったというから驚きだ。
いまは高層ビルが林立して空も狭い東京に、かつては牧場が点在し、牛がのんびり草を食んでいたなんて夢のようだが、明治期から続く牧場では最後だった「四谷軒牧場」(世田谷区赤堤)が閉鎖したのは1985年なので、そんなに遠い昔ではない。また、練馬区大泉学園では、いまも昭和期創業の「小泉牧場」が23区内に唯一残る牧場として元気に酪農を続けている。
都内には牛乳の史跡が思いのほかたくさん残っていて、「東京ミルクものがたり」(農文協)という牛乳散歩に最適なガイドブックも出ている。時代の花形だった往事の風景を頭に浮かべながら巡ると、牛乳をもっと応援したくなってしまう。
(Kyodo Weekly・政経週報 2022年4月18日号掲載)
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