食べ物語
連載「プロの眼」 日本のインド料理店(下) IT系が広げた南の食味 小林真樹 NNA
2021.02.05

前回は2000年代に日本で台頭してきたネパール人経営者によるインド料理店を紹介しました。他ジャンルのメニューを果敢に取り入れ、カジュアル化で新たな客層を開拓するなど、高級でややクローズドな印象だったインド料理を一般化・大衆化させたのは、来日後に苦労と経験を重ねてきたネパール人の功績と言えます。
今回はそれと対照的な日本の南インド料理と、これを担うIT系インド人経営者の世界についてお話しします。(写真:虎ノ門のナンディニが不定期に開催するイベントでさまざまな南インドの味を知ることができる=筆者提供、以下同)
そもそも、南インドとはどのようなところなのでしょう。
それは従来、政治や経済あるいは観光なども含めた「インド」のイメージを長く形作ってきた首都ニューデリーを擁する北インドとは異なる言語と民族から成り、まるで別の国とさえ言える文化圏です。
タミルナドやケララなど南部の5州で構成され、イギリスからの独立後もしばらくは中心地である北インドの傍流といったイメージで見られがちでした。
しかし近年、興隆するインドのIT化をけん引する主要企業のほとんどが南インドを本拠としていることから注目されはじめました。やがて、こうした企業が欧米や日本に進出したり、多くの技術者を派遣したりすることで急速に存在感を増していきます。
この産業面における台頭は、傍流と見なされていた南インドの文化全般にもスポットライトを当て、押し上げる原動力となります。もちろん料理文化はその筆頭。とりわけ、こってりした北インド風の外食料理と一線を画すヘルシーさが注目されるようになります。
ナンではなく南インド米 バターチキンはスープに
ネパール人経営者によって従来のインド料理店の業態が大衆化された2000年代以降、日本国内でも南インドの料理を出す店が増えはじめます。
ネパール人経営の店が、郊外の大型店や駅近くの便利な小型店としてカジュアルなスタイルへと変容していったのに対し、従来のインド料理店が備えていたゴージャスな内装と都心部への出店といった高級路線は、むしろ南インド料理店に継承されたといってもいいかもしれません。
それまで定番だった大きなナンではなく南インド米が、バターチキンではなくサンバル(豆と野菜のスープ)が、それぞれ取って代わるように提供されました。これらもの珍しい南インドの定番メニューで新規顧客の獲得に成功していきます。
首都圏を例に、どのような店があるのか紹介していきましょう。
(写真:アーンドラ・ダイニングはオーナーこだわりのアーンドラ料理が楽しめる繁盛店)
銀座(東京都中央区)のアーンドラ・ダイニングは、都内のインド料理店関係者の誰もが一目置くベテランシェフの人気店。長年の経験を基に提供するぶれのない確かな味で、いつ行っても賑わいを見せています。アーンドラ地方は唐辛子の一大産地。それを多用した辛い料理が有名ですが、ここでは単に辛いだけではない奥深く豊かなスパイスの魅力を味わえます。
経堂(世田谷区)のスリマンガラムは、タミルナド州南部のローカルでワイルドな味が楽しめる名店。菜食主体のイメージが強い南インド料理ですが、同店では後を引く辛さが心地よい肉料理の数々を堪能できます。
(写真:スリマンガラムのシェフ、マハリンガムさん。料理はもちろん、その陽気な人柄に引かれるファンも多い)
浅草(台東区)にあるサウスパークは、アラビア海に面したケララ州の特性を活かしたシーフードや、牛を神聖視するヒンズー教徒が多いインドでは意外なイメージのビーフを使った料理などが食べられる店。土鍋でスパイシーに煮込まれたホロホロに仕上がったビーフを、パンの一種であるパロタと共にいただくのが絶品です。
その他、アーンドラ料理を主軸としながら、イベントで南インド各地の味を広く紹介する虎ノ門(港区)のナンディニ、アラブ文化の影響を色濃く残すマラバール地方の料理を提供する川崎市(神奈川県)のケララキッチンなど、個性的な名店がたくさんあります。
(写真:ケララキッチンはケララ州特産のテラコッタ(素焼き)製食器で提供されるのもうれしい)
IT技術者が独立 飲食業に乗り出す
00年代に登場した初期の南インド料理店は、ITや他の技術分野の駐在員による共同出資や、技術職として来日後に独立した人により始まりました。本業を別に持つ人たちが、来日後に初めて飲食店ビジネスに乗り出したというケースが大半だったのです。
この点も、元々どこかのインド料理店で長く勤務したコック上がりの経営者が多い、ネパール人の店とは対照的です。
では、そもそも南部出身のIT系インド人が、なぜ来日するようになったのでしょうか。
1990年代後半から日本国内で増えていったインド人のIT技術者は、コンピューターの「2000年問題」や企業のIT化といったミッションに従事したといわれています。
インド企業から時限的に派遣されるケースが中心でしたが、中には長期雇用されたり都内で独立起業したりする人たちが現れました。そして、その多くは派遣元の本社があった南インドの出身者でした。
彼らは同時に上流家庭の出身が多く、そうした家庭は宗教的理由で食に保守的です。日本のインド料理店で出される肉料理主体のメニューや北インド式の調理法で作られたメニューを、同じインド人でありながら食べることができないという苦い経験を持つ人たちが少なくありませんでした。
こうした不満を持つ人の中から、自分たちの故郷である南インドの料理を食べられる店をと考える人が登場するのは、ある意味で自然の流れかもしれません。
折しも、1990年代後半から増え始めた南インド出身者たちの滞日年数がそろそろ10年を越え、日本の永住権の取得要件を満たした時期と一致します。
南の文化知ってもらう 北インドへの対抗心も
(写真左:南インドのケララ州で行われたオーナムという祭礼での食事。バナナの葉に十数種類のおかずが盛られる。右:バナナの葉が敷かれおかずが載せられていくのを待つのも南インド現地での食事の楽しみの一つ。しっかりした定食「ミールス」は昼用でそれ以外の時間は軽食という店が多い)
もちろん商売である以上、繁盛店にするというのは当然の目標です。しかし、とりわけ初期の南インド出身のレストラン経営者の中には、単なる商売を抜きにした志にも似た高い意識が確かに感じられました。
出身地域である南インドの文化をより広く日本人にも知ってもらいたい、という啓蒙(けいもう)意識や、長年主流と見なされていた北インド文化への一種の対抗心が重要なモチベーションになっていたことは、多くの南インド人経営者が共通して語るところです。
そして、こうした自由度の高いビジネスを可能にした背景の一つに、本業の専門技術によってもたらされた高額の報酬があるとみて間違いありません。
従来の定型化されたインド料理には無かった、南インド特有のメニューの数々。これが南部の出身者だけではなく日本人の一般客にもヒットし、より深く広がっていったことは現在多くの店が繁盛している姿からもうかがえます。
こうした南インド料理店は今後、その希少性を打ち出しながらさらに細分化し、増加していくでしょう。懐の深いインドの食世界、そのアイデアと料理はまだまだ広がりを見せそうで目が離せないのです。
小林真樹(こばやし・まさき) インド食器・調理器具の輸入卸業を主体とする有限会社アジアハンター代表。1990年ごろからインド渡航を開始。以降、毎年渡印を重ねる。最大の関心事はインド亜大陸食文化。食器の仕入れを兼ねてインド亜大陸の各地を、営業を兼ねて日本全国各地を、くまなく食べ歩き踏破している。近著に『日本の中のインド亜大陸食紀行』(阿佐ヶ谷書院)、『食べ歩くインド』(旅行人)。(NNA)
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